最初の1週間は右手、左手とバラバラに練習した。そして2週目、1小節ずつ合わしてみようという段階になった。これが不謹慎だが、面白いくらいに(?)歯が立たなかった。右と左を同時に制御できないのである。私自身は当たり前に両手別々にコントロールできるので、その感覚はどうだったかは思い出せないのだが、以前、弟のティエティエに「よく右と左別々に指が動くよね」と驚嘆されたことがあるので、初心者にとってはそんなものなのだろう。
私はなんども実演し口で説明しコツを教えた。
「右手でシシの時、左手ソー。右手でレレの時、左手シー。」
全くダメだった。右でシシと弾いたあと、遅れて左手がソーとやってくる。根気よくやった。本人も弾けないと面白くないだろうから、両手が出来なくてしょげ始めた時は片手練習を勧めた。本人も片手だと弾けるのに、両手だととたんにできなくなるのを不思議がっていた。
最初のたった2小節。結局、左手と右手が時間差でシングルで動くのが続き、間違いながらもなんとかパラレルで手が動くようになるまで1か月かかった。時は11月初め。まだ2か月あるからなんとか間に合うかと思ったが、そうは問屋が卸さなかった。
12月に入って両手で曲の終わりまでなんとかさらったものの、後半は必ず1小節ずつ立ち止まってしまうような状態だった。これ1月の発表会に間に合うんかい…? 焦る気持ちを抑えながらトゥットゥの練習に付き合うも、12月最後のレッスンでもまだあやふやな運指だった。
おかげで正月はあってないようなもので、正月にサチ母の家に滞在していても、エミィさんがかつて弾いていた調律もままならないピアノを使って、トゥットゥと何度も練習した。なぜこの時期に…と少し先生を恨みかけたが、受験生の度胸試しもあり、この時期に設定しているという。なるほど。まあ、どの季節にやったとしても、その時々の何かが満喫できないと自分の中でせこい苦情が沸き上がりそうである。腹をくくるしかあるまい。
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発表会当日。親族関係には控え目に声をかけたのだが、それはもう賑やかに皆「聞きにいくからーっ!」と言って来てくれた。サチ母とエミィさん、ユキちゃんとター君、ヤマナちゃん。デコ母は山口からはさすがに参加できないと、発表会用のドレスを縫ってくれた。ツルツル滑る慣れないサテン、何度が解いては縫ってくれたらしい。トゥットゥの大好きな青。本当にドレスがお守り代わり、百人力だった。
プロのピアノコンサートが行われるホールで行われ、弾くピアノはスタインウェイのフルコンサートピアノ。私でも2回くらいしか弾いたことないのに、なんと贅沢な。朝11時半開演で、夕方18時40分まで行われる長丁場だ。トゥットゥは第二部の1番、13時10分の本番に備え、12時20分から練習、12時40分に着替えというスケジュールだった。
第一部スタート。当のトゥットゥはと言うと、聞きに来てくれたエミィさんにチョッカイを出したり、ター君とじゃれ合っていて、自分がこれから弾くのだという緊張などあったものではない。私は「静かに!」と怖い顔で人差し指を口に当てるばかりだった。
12時頃サチ母が買ってきてくれたお弁当をお腹に流し込むと、12時20分に練習室に向かう。そこで事件は起こった。彼女は初めて蓋の空いたグランドピアノを見たのである。ピアノを覗き込むと見たことももないメカニカルな中身。弾くとハンマーがポンポンとリズミカルに上がり音が鳴る様子に彼女は虜になってしまったのだ。弾きながら首を伸ばし、ピアノの中を覗き込む。まったく演奏にならなかった。
彼女の好奇心はわかる。しかし演奏に集中してほしい。私は3秒考えた末、先に彼女の好奇心を満たすことにした。腕をL字に折り、肘を鍵盤側、手の平をハンマー側とし、鍵盤に力が加わるとハンマーが上がる仕組みを教えた。そしてワイヤーの長さ、太さによって音の高い低いが決まることも教えた。この間、20秒くらい。トゥットゥは満足したらしく、その後の約10分の練習時間に集中してくれた。練習が終わると、衣装に着替えた。緊張が高まる。
本番。私は舞台の袖でトゥットゥを送り出した。あれだけピアノのお椅子のところまで行ってお客さんに礼をするのよ、と念を押したのに、彼女はどこで礼をしてよいかわからなくなったようで、くるりと振り向いてまだ袖まで戻ってこようした。先生が慌てて飛び出して、一緒に礼をしてくれた。一番前の客席にはジェイジェイをはじめとし、トゥットゥの演奏を聞きにきてくれた皆が見えた。
いよいよ演奏。
本当に今までで一番の出来だった。まさかのノーミス。「みどりのまきば」草を食んでいる前半。走り始める後半、立ち止まる最後、きちんと教えた通りのメリハリがついていた。「とうげの我が家」先生にも言われた3拍子を感じて…というのもできていた。1、2、3、1、2、3、三拍子で前に進んでいた。「私の家ってほんとうにいいでしょう!」と膨らむ気持ちも音の強弱で表現できていた。
舞台袖に戻ってくると、彼女は恥ずかしそうに笑っていた。
「よくやったよ!上手だったよ!」
と褒めてやった。彼女はほっとしたようで、もういつものトゥットゥに戻っていた。「まだこのドレスを着ていたい」「帰ったらター君と遊びたい」「マクドナルド行きたい」など子供らしいことを言い続けた。
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発表会の体験はトゥットゥにとってどうだったのだろう。終わった後に率直なところを聞いてみた。
「うーん。お客さん少ないし、別に緊張しなかったよ。」
何か大物感が漂うクールなコメントである。しかし、もう発表会に出たくない、ピアノやめたいといった後ろ向きな感想は出なかった代わりに、これといった前向きな感想も特にでなかった。いろいろ聞き出そうとしたが、口に登ることはなかった。
音楽をやる意味、演奏する意味、発表会の意味、まだまだ自分でつかみ切れてないだろう。自分だってそうだった。言われるがままにやっていた。言葉にできるのは小学校高学年くらいなのかもしれない。それでも、私の場合出てくる感想は、難しい曲が弾けるようになって嬉しいくらいだったけど。
ピアノの発表会が終わり、数日たったある日、保育園の帰りにピアノの先生に偶然に会った。
「トゥットゥちゃん、上手だったよー」
私は「ありがとうございます」を返そうとして瞬間だった。トゥットゥが間髪入れずに言った。
「先生、ピアノ、がんばります!」
この子、こんなキャラだっけ? 私は呆気にとられた。どちらかと言うと大人の前ではモジモジしている子だ。しかしキラキラした目をした我が子を見て我に返った。これが発表会を終えて得た気持ちなんだろう。頑張って成果を出した時の誇らしい気持ち。そのような体験をさせてあげることができて本当によかった。立ち話だったが、私は泣きそうになった。親冥利につきる、今、この日記を書きながらその気持ちをかみしめている。
<おまけ>
頂き物
サチ母&エミィさんより
デコ母&ヤマナちゃんより
ユキちゃん&ターくんより
ヤマナちゃんより