とトゥットゥにお願いをすると、朝、洗いあがった中に体操着袋ごと出てきた。すぐに叱った。
「面倒臭くてわざと体操着袋ごと入れたのか。それともこのまま入れてもいいと思ったのか。」
後者だと言う。頭を抱えた。思わず「アホか!」と怒鳴ってしまった。
「洗濯物を出す時、下着と服は分離しろ」と口を酸っぱくして言っているのだ。汚れをきちんと落とすため、洗濯物を干す工程を減らすため、という理由を添えて。そこでトゥットゥと問答。
「下着とシャツは?」
「別々にする」
「ズボンとパンツは?」
「別々にする」
「袋に入った体操服は」
「入れたままにする」
ノー!
再度理由を一から説明する。その上で
下着と服は分けなければならない(ルール)。体操着袋に入った状態は下着と服がくっついた状態だ(観察事項)。よって体操着袋に入った体操着は出さなければならない(結論)
と結論の導き方を教えた。演繹法…小1はまだ難しいのだろうか?
親バカだが、トゥットゥの言葉の使いまわしや記憶力など「この子賢い!」と思うことが多い。「はぁ~、賢い!」と芝居がかって驚嘆したような声を掛けることもある。しかし今回ばかりは真顔で
「人の話をよく聞いて、物事をよく見て、順番に考えて、やらなければならないことを見つけるのに頭を使うんだよ。それが本当に『賢い』ってことだよ。」
と諭した。
しかし「賢い」彼女のことだ。別の観察事項があるのかもしれない。
例えばネットに入れる洗濯物。こちらも「他の洗濯物を傷つける金具のついた服、ビーズなど外れたら困る服、柔らかく破れやすい服、型崩れさせたくない服はネットに入れる」と説明したことがある。
もしかすると、
大切な服はネットに入れなければならない(ルール)。体操着は大切な服である。(観察事項)。よって体操着はネットに似た体操着袋に入れたまま洗ったほうがよい(結論)
まさかね。そこまで想像していたら大したもんだが…。自分もここまでぐるぐると考えていると、流石に反射的に叱ってしまったことを反省した。家に帰って彼女にもう一度聞いて見ることにした。
「お母さん、袋を渡して『全部洗濯機に入れておいてね』って言ったでしょ。全部って、袋丸ごとだと思ったの。」
なんてこと! 言葉のイメージが違ったのが原因だったのか。私は彼女にすぐ謝った。
★
同じ日、トゥットゥが授業中にやった数の並びの問題のプリントを持って帰ってきた。「①:1-2-□-□-5-6-7-□-□」はもちろん簡単に解いたみたいなのだが、「②:□-□-□-□-5-4-3-2-□」何度も間違えちゃったとバツが悪そうに言った。②を飛びついて「1-2-3-4」と入れてしまったことはすぐに想像できた。トホホ
「この数の並びのルールは何?」
「わかったー、①も②もぶわーって上がってる」
「ぶわーって上がるって。まあ表現は上がるでもいいけど、②は上がっているか?」
「下がっている…?」
「そうね。数の場合は『上がる』ではなくて『増える』ね。ではもう一回。
①はいくつずつ『増えて』いる?」
「1つずつ増えている」
「ハイ、正解。では②は?」
「…下がる?」
「違う、違うぞ! 『増える』の反対は?」
「…わからない。」
そこで思ったのだ。言葉か。言葉がまだないからロジカルシンキングできないんだ。言葉と直感が結び付くように言葉を少しずつ増やしていこうと思った。
★
そして何の因果か、同日、風呂上がりにトゥットゥが一緒にお風呂に入っていたジェイジェイに促されるようにあることを言った。
「ピアノとRISU算数をやめたいの。なぜなら二つ理由があります。一つはお母さんのお金が大変だと思うから。もう一つはなかなかやりたい気持ちになれなくて時間が過ぎていっちゃうから」
お風呂の中ですでにその話を聞いていたジェイジェイに軽く探りを入れると、特に前半は一生懸命理由を考えたらしい。私が「お金かかってるんだよッ!」と脅すことを逆手に取って、Win-Winの提案をしてきたというわけか。人の心の動かし方をこの年にして理解するとはおそるべしトゥットゥ。しかし本音は後半だということはすぐにわかった。
確かに学童から帰ってきて18時。その後、学校の宿題、明日の準備、ご飯、お風呂、寝支度と息をつく暇もない。辛うじて私がご飯の支度をしながら19時から19時40分で彼女のピアノ練習に付き合っているが、舟を漕ぐこともしばしばだ。保育園に比べて帰宅後やることが増えて負荷が増したのだ。トゥットゥ自身も保育園時代のようにピアノや算数に向かえていないことを私に悪いと思ったのだろう。
「お母さんのこと気遣ってくれてありがとう。お金は大丈夫。あと『やる気にならないのにやらなければならない』って気持ちがつらいんだね。焦らなくていいよ。やれる時に一緒にやろう。」
とだけまずは伝えた。
でもそれだけだと彼女の辛さは認めて一緒にやろうと提案はできていても、おそらく本当の不安「辛さは減るのか?焦りは無くなるのか?いつになったら楽しくなるのか?」ということに関しては答えていない。楽しくなれば放っておいても率先してやるだろうから問題はないのだが、辛いまま続けさせる意味はあるのか。
私は、自転車が乗れるようになるまで訓練が必要なのと同じで、物事を楽しいと思って自走するまで堪(こら)える必要があると思っている。それを面白くないと思った場合どう対象に向かわせるか。適切な課題で自信をつけさせて導いてやればよいのだが、そううまくいく時ばかりでもあるまい。
「『やりたくないからやらない』だけが理由だとこれからいろんなことが乗り越えられない。自転車も頑張ったら乗れるようになるでしょ。算数とピアノも同じなんだ。楽しいとは思えなくてもやっててよかったと思える時がある。お母さんは算数もピアノもその時があることを経験上知っている。だから続けさせたい。どうしようもなく辛い時や他にやりたいことが見つかったらやめよう。その時まで頑張って欲しい。」
しどろもどろながらも正直な気持ちを伝えた。
どう考えても私の論理は飛躍している。自転車に乗れるようになるのと同等の喜びが本当に算数やピアノでやってくるのか、私の経験というブラックボックスで押し切っているだけだ。結局は親のエゴなのだ。ごめん。
しかし、人は論理で納得したからやるのではなく、人は期待されると応えたくなるし、期待がなくなると寂しいものなのだ。追い詰めないように伴走していきたい。