2016年3月27日日曜日

「普通」を広げよう−自閉症を考える−

先日、友人が遊びにきた。上の男の子(5歳)が自閉症である。この話は以前のブログでも書いた。自閉症にも程度がある。彼の場合はどのような傾向がどの程度あるのだろうか、詳しくは知らなかった。ただメールでは年少は普通の幼稚園に通っていたのを、年中からは療育専門の機関に変えたことだけは知っていた。

その後の様子はどうかと聞くと、自閉症の中でもかなり重度に入ると友人は言った。まず言葉が出ない。そこで療育では次のような訓練を母子共に行ったという。五十音の一つ一つ発音の仕方、つまり口の開け方、舌の使い方、空気の出すスピードを身につけ、ようやく発音できるようになったところで、一単語を覚える。単語を覚えたところで、二単語を組み合わせて文章を作る。

例えば「ハンバーガー」+「ください」。これをもう少し複雑にする。「ハンバーガー」+「ポテト」+「ください」。普通だとハンバーガーとポテトは並列で別々のものだとすぐにわかるが、彼の場合はすんなりとわからない。そこで絵の描かれた札として「ハンバーガーとポテト」が並んだものが渡される。概念として一つものである。それを「ハンバーガー」と「ポテト」と表現をすると、札を切り離す。概念として二つのものになる。

このような地道な訓練により、日常の意思の疎通がなんとか会話で成り立つようになったと言う。話せるようになって他人にお願いするのに彼が一番最初に発した言葉が

「すいません、すいません!」

だったというから、彼女の礼儀正しさがきちんと伝わっていることを微笑ましく思った。

そして彼女が言う。

「健常者がいかにすごいか、改めて思うね。」

普通だと真似ることで無意識に獲得できる人間の能力。その過程をつぶさに体験できるというのは、そうそうないことだと思った。





自閉症のことを知る前の私であれば、無邪気に励ますつもりで「一般人(健常者)にはない特別な才能があるんじゃないの?」なんて聞いてしまいそうだったが、それはやめた。それはメディアに出てくる、つまりもてはやされるのは、発達障害の一部の人たちであって、全体の姿ではないと私も学んだからだ。

「特別な才能」というと、もうそれだけで社会という多くの健常者の構成員からなる共同体に役立つということが前提になってしまうが、「特別な感覚」は持っていることは確かなのではないか。というのも、先日あるブログを読んで確信したからだ。(フミログ「ADHDの私がコンサータを飲み始めて一年が過ぎました」

このブログに出てくる人はADHDの人だ。発達障害という括りでは自閉症と同じであるが、厳密にいうと自閉症とは異なる。この人は感覚が鋭すぎて日常生活に支障をきたしていた。だから薬によって情報の混乱をなくすことで、健常者が普通にやっていること(最後まで考える、文章を書く、人の話を聞くなど)ができるようになったという。そのかわりできなくなったことが衝撃的だった。

色、音楽、味、みなバラバラに捉えらえること。

本当のところどういう感覚なのかは、私は未体験なのでわからない。しかし想像してみるに、本当に豊かな美しい世界だったのではないだろうか。こういうインプット感覚を持ち合わせ、且つアウトプットできる人を天才というのではないかと思った。凡人の私は一度でいいから体験してみたいと思った。

なんの役に立つかはわからないが、友人につらつらとこの話をすると、彼女は少し考え込んで

「確かに私たちではとうてい想像できない感覚を持っているのかもしれない。この子の知り合い(やはり自閉症)には、形に固執する性格の子がいて、ジグソーパズルが裏返しでできる。それも常人がやるように角や縁からやるのは美しくないんだって。すごいよね。」

そして続けて言った。

「私の子にも何か世の中の役に立つ、特殊な能力を見つけてあげられればいいんだけれど、そんなに簡単なことじゃない。」

その言葉から我が子と社会の接点をなんとか見つけてあげたいと願う親の苦悩が見てとれた。





友人の子は今年年長さんだ。7月には普通の小学校の特別支援学級に行くか、特別支援学校に行くかの選択をするという。通常はもう少し判断は先でよいらしいのだが、小学校進学前になって、いわゆる普通の幼稚園や保育園に通っていて、順調な発育に当てはまるか、当てはまらないかのボーダーの子とその親が秋に相談に殺到するらしい。それを避けて、夏には決定しなければならないという。

友人は迷っていた。なるべく子どもを普通に近づけたいという希望がある。

「普通」

私たちが大人になって出て行く社会は、多くの「普通」で成り立っている。私たちも同様、「普通」と接点を持ち、自分の感覚、考え方と調整していくことが、生きて行くことで重要なのである。そのための第一歩として、いわゆる「普通」の学校にまず接点を持たせるか。それとも大人になってからの「普通」の社会と馴染むための訓練を積極的に行う学校に行くか。

子どもにとっては後者がいいのかもしれない。ただそれはすでに我が子が「普通」ではないと覚悟を決めることを意味する。自分がかつて体験した、ランドセルを背負って登校し、友達と勉強をしたり遊んで過ごす小学校の「普通」。後者の選択とは、もしかするとあと少しの訓練により、この「普通」に混じる、「普通」になることができるかもしれない、という希望を捨てることと同義なのではないか。その上、おじいちゃん、おばあちゃんたちの希望、ランドセルをプレゼントしたくてうずうずしていることを彼女は感じ取っていた。それは「普通」の小学校に行くこと。

息子のために最良の選択をしたい自分、親の期待に応えたい自分、なにより普通に混じりたいと思っている自分、全て自分なのである。

普通に混じりたい、それは決して恥じる気持ちではない。きっと誰もがいつでも思っていることだ。人間として生きるかぎり、できるかぎり嫌われたくない、仲間はずれは嫌だ。社会の構成員として認められたい。それだけは私でもわかる。だからこそ私は彼のような人たちを、彼を大切に思う人たちのためにも、仲間はずれにするような人間だけにはなるまいと思った。

ある時、息子さんが電車の中でファストフードの袋から漂う美味しそうな香りでたまらなくなったのか、知らないおじさんが持つその袋を開けたらしい。そして当然だがおじさんは怒り「親はちゃんと食わしているのか!」と声を荒げたそうだ。彼女はここで「息子は自閉症です。」と伝えることもできたが、そこまで世の中に理解が進んでいるとは思えず、その場を早く丸く収めるためにひたすら謝り続けたという。

私がそのおじさんだったらやはりまずは驚くだろう。怒りか恐怖が湧き上がるだろう。しかし実例を知っていればすぐに「自閉症かもしれない。」と思い出すかもしれない。その時は「あらあら、いい匂いがしたかな? でも人の袋は勝手に開けちゃダメだよ。」と優しく言ってあげたい。恐縮する親には目配せで安心させてあげたい。

私の「普通」に多様性を組み入れること。そのためにはとにかく実例として知ることが重要だと思った。人間、日々成長である。