浴室暖房などないうちのお風呂は冬場は寒い。トゥットゥと一緒にお風呂に入る時、私が髪を洗っている間など、彼女一人で湯船に浸かっていてほしい。立つ座るの動作がスムーズにできるようになった1歳後半、冬場一人でお風呂に浸かれるように訓練をした。しかし浅い水位でも一人で湯船に浸かるのは怖いようで訓練の度に絶叫した。あまり無理強いしてお風呂嫌いになってもいけないし…、結局訓練は持ち越して、2歳の冬にようやくお風呂の縁を持って湯船にしゃがんでいられるようになった。
しかし二人で湯船に入ると相変わらず、私の身体の上に乗った。それは膝上だったり、お腹だったり、胸あたりだったりと、親の浸かる姿勢で様々だが、0歳でお座りができるようになってなってから、この姿勢で湯船に浸かるのは当たり前となってから、特に彼女に疑問はないようだった。
3月14日(月)だっただろうか。私はすでに妊娠7ヶ月目に入り、その当たり前の姿勢はきつくなってきた。その日はその姿勢でしばらく保育園であった出来事など楽しくおしゃべりをしていたのだが、きりのよいところでトゥットゥにお腹の上ではなくもう少し下がるように丁寧にお願いした。
「お母さん、それじゃお腹が痛いんだ。赤ちゃんつぶれちゃうんだ。少し後ろに下がってくれるかな。」
しかしトゥットゥは後ろには下がってくれない。お腹が圧迫される。私は両手で彼女の両脇をはさみ少し後ろにずらそうとした。彼女は慌てて手足をバタバタし始めた。そうか、トゥットゥはいまだにお湯が怖いのか。
しかし別の思考が働いた。いい加減3歳になり、いつまでもお腹の上でいいのか。彼女はお姉ちゃんになるのだ。せめて身重の私を気遣って風呂の縁を持って座ってくれるだけでもいいのに。私は幼い子に配慮を求めようとした。
私はバタバタして怖がるトゥットゥの身体を強引に引き離した。
「ぎゃーーーーーーー!」
それは私がひどい虐待をしているような、そんな叫び声だった。私は驚くと同時にカチンときた。そこまでひどいことしていないじゃないのさ。
「ちょっと離れてって言っただけでしょ!」
トゥットゥは湯船の中で私の足の上に乗り、脇を抱えられたまま暴れて泣き叫び続けた。
「トゥットゥ、お風呂の縁を持って座れるじゃないの。そうしてごらんよ。」
私は彼女を縁につかまらせようとした。
「ぎゃーーーーー、でーたーいー! おふろ、でーたーいー!」
私は湯船から立ち上がり、彼女を抱っこしたまましばらく説得を試みた。
「お母さんはお腹大きいから、さっきの姿勢だとつらいの。」
「いつも一人でもお風呂入れるじゃない。」
「もうおねえちゃんになるんだよ。そんなことで泣かないの。」
その間もトゥットゥは泣き叫ぶことしかしなかった。
「…わかった。そんな子はお風呂入らなくていい。お風呂から出てなさい。」
抱っこをやめて、浴槽の外に出した。
私はこの時初めてといっていいだろうか。立ったまま上から彼女を見下ろし、蔑むような、呆れるような、見捨てるような目を向けた。それまではどんなに叱っても、お外に放り出すといっても、視線を合わせて、諭してやろうという気概で彼女に接した。しかしこの時は違った。本気で腹が立ったのだ。
なぜこんなに腹が立つのだろう。今、余裕がないわけではあるまい。いつもなら、「子供のすることだ。まだ道理がわからないのだ。ゆっくり教えてやらなければならない。」そういう気持ちで接することができるのに。泣きじゃくる彼女を見下ろしながら、自分で混乱した。可哀想とは思えなかった。自業自得とすら思った。泣き止ませたいと思っているのに、出てくる言葉は彼女を責めるような言葉ばかりだった。
「寒いけどそのまま外にいなさい。」
「もうずっとお風呂に入らなくていい。」
「もうお母さんはトゥットゥとはお風呂に入りたくない。」
子供は敏感である。トゥットゥはしゃくりあげてひどく泣きながらも状況を理解したようであった。
「うぇえええええ、(ひっく、ひっく)おかあさん、(ひっく)あやまらせて、(ひっく、ひっく)」
出てきた言葉は「ごめんなさい。」ではなかった。「謝らせて。」 私は我に返った。おそらくその時の私は、トゥットゥの謝罪すらも受け付けないような雰囲気だったのだろう。
「ああ、お母さんこそゴメン。あやまる必要はないんだよ。ひどいこと言ったね。お母さんはちょっとずれて欲しかっただけなんだよ。大泣きするからびっくりして、腹が立ったんだよ。」
そういうと、あとはトゥットゥはひたすら
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
を言い続けた。
小さな子供を追い詰めるなんて、私はなんてことをしてしまったんだろう。
結局、この日を境にトゥットゥは湯船に入れなくなってしまった。翌日ジェイジェイに事情を話し、お風呂を頼んだけれどダメだった。彼は強引に入れても怖がるだけだから、入りたいと思うまで待とうと言った。それしかなかった。
★
トゥットゥが湯船に入れなくなってしまった原因は私の怒りにある。それまで彼女に腹を立てるということはあっただろうか。なぜ腹が立つようになってしまったのだろうか。
それは言葉だった。
お正月を境にトゥットゥのおしゃべりの技術が飛躍的にあがり、ほぼ問題なく意思疎通ができるようになった。保育園でやったことなど状況を聞きだすにはまだまだ記憶と言葉が結びつかず、あいまいなところもあるのだが、今何を思っているか、何をしたいのか、など今についてはほぼ問題がなくなった。これはつまり私にとって一人前の自我を相手するようになったことを意味する。
その事件のあったお風呂でもしばらくおしゃべりを楽しんだ後だった。私は彼女に私に要求(後ろに下がってほしい)が伝わり、彼女が快くそれを飲んでくれることを期待していたのである。ところがそれが裏切られた。しかも驚くような拒否の仕方で。私は期待を裏切られたことに腹を立てたのである。要求を飲んでもらえないから腹を立てるなんて、トゥットゥにとってはまるで私(母親)の愛情を盾にした脅しではないか。
私は彼女を、大人と同じ、配慮のできる、一人前として扱おうとしている。それが反省すべき点である。意思疎通ができるようになったからといって、相手を思いやるという社会性を身に付けるのは、もっと先であり、それこそ一生かけて環境に応じて磨いていくものだ。
それが今回のようだと、社会性を身につける機会だといっても、例えば叩かれないようにとか、自分が一番得をするようになど、自分の損得が第一の動機になり、いわゆる卑屈な子、卑怯な子になってしまう。損得を考えない人間本体の持つやさしい気持ち(突き詰めれば遺伝子を残すための戦略として本能的に組み込まれたものなのかもしれないが…)を元にした振る舞いは、親の余裕ある接し方、つまり見返りを求めない愛情からしか生まれないと思う。子は親を見て育つのだから。
私自身、大いに反省した3月であった。
トゥットゥは進級と同時に湯船に入ることができるようになった。3月の最後の週あたりから約束をしていた。
「トゥットゥは4月になったら○○組になるんだよ。お姉さんクラスになるんだよ。そしたらお風呂に入ってみようね。」
「…トゥットゥはおねえさんだもんね。…いいよ。」
最初は怖がって「入りたくない」と言ったが、粘り強く説得した結果、約束は果たされた。トゥットゥは本当に成長したんだなあ。