2016年4月17日日曜日

時間が止まってしまう呪い

3月半ばにトゥットゥは「~したかったのに。」と私に訴えるようになった。これは英文法でいうところの仮定法過去完了ではなかろうか。もうそういう時制を使えるようになったのか。言語の習得とはすなわち時間感覚の習得。素晴らしいと思った。

ところがである。この時制を習得したことで、彼女はとんでもない呪いにかかってしまうことになる。その呪いに気づいたのは4月10日(日)。トゥットゥは少し熱っぽく、夕方体温計で体温を図ろうとしたところ、次のように訴えてきた。

「(体温計の)スイッチをいれて、じぶんではかりたかったのに。」

通常であれば、私が謝った後、再度自分でやらせてあげて一見落着なのだが、トゥットゥは言い続けた。こういう場合、どうすればいいのか。冷静に考えて次の4通りの対処を行った。

1.希望に添えないことを謝罪する
2.もう一度やろう、後でやろうと提案する
3.理由を話して仕方ないと説得する
4.他のことで気を逸らす

しかし彼女は頑なだった。

あの時、あの瞬間でなければ意味がない!

トゥットゥの全身からそうほとばしっていた。過去に囚われてしまったのであろう。呪いとはそこから時間が止まってしまうというものだった。

結果10分以上愚図り続けた。私はほとほと困り果てた。時間を止める能力(?)、「ジョジョの奇妙な冒険」のディオのスタンドになぞらえて「ザ・ワールド」と呼ぶことにしよう。これくらいしか自分のガス抜きができなかった。

激しい抗議の嵐はいつの間にか止んだ。言い疲れて自分自身が飽きたか、ほかの気になることができたかはわからない。しかしこの日他にも私はトゥットゥの地雷を踏んだ。

・トイレの水を流したかったのに
・トイレの電気をつけたかったのに
・ガーゼハンカチのぐちゃぐちゃにしないでほしかったのに
 (お風呂で使うため水気を絞ったことに対する抗議)
・リップの蓋を開けて自分で塗りたかったのに

いずれも泣き続けて抗議する娘。その度に私の謝罪説得、10分も経つと私は彼女を正面きって相手するのが面倒くさくなってしまった。最終的には地蔵菩薩のような顔をして「覆水盆に返らず」と伝えるのみとなった。もちろん猛抗議は続くわけだが、彼女が言い飽きるのを待とうと思った。最後、彼女は寝てしまった。




翌4月11日(月)。昨日体温計を持ち出したくらいだから予想はついていたのだが、トゥットゥは朝から高熱があった。しかし私は今日の午後どうしても外せない会議がある。ジェイジェイは客先常駐の忙しいプロジェクトに配置され休めない。この日は午前中は私が病院に連れて行き、ヤマナちゃんに午後からトゥットゥの面倒を見るようにお願いしていた。

10時頃、病院に連れて行くと、扁桃腺炎と診断された。登園停止の病気でなくて本当によかった。トゥットゥは、高熱のためか不安そうに「お母さん、大好き」とか言ってたくせに、12時前にヤマナちゃんが来ると大喜び。ヤマナちゃんに、ザ・ワールドの能力を持つ娘の取り扱い説明をしていると、トゥットゥは業を煮やしたのか、

「お母さん、もう会社行っていいよ。」
「もう会社行きなよ。」

…なんだこの反応。ちょっと腹が立つ。とにかく私は家を追い出されて会社に行く形となった。

仕事に帰って家に帰ってヤマナちゃんにトゥットゥのザ・ワールドは発動しなかったかを聞くと、

「お姉ちゃんの言う『面倒くさい』の意味がわかったよ…。少し喧嘩しちゃったもん(笑)。」

ヤマナちゃんのことだ。さしずめ「オラオラオラ」と軽いフットワークのスタープラチナで対抗してくれたのだろう。私が晩御飯を用意している間、トゥットゥは再びヤマナちゃんにザ・ワールド発動。台所から居間を覗くと、どうも「トイ・ストーリー」の人形をヤマナちゃんがどうにかしたとかで、「~したかったのに!」と抗議している。ああ、何度もゴメンなさい。

ヤマナちゃんによると、トゥットゥは私が留守中に

「トゥットゥはおねえさんだもんね。」

と言っていたと教えてくれた。確かに保育園で進級したこと、そして私のお腹に第二子がいること。彼女は求められるレベルが高くなったのだ。彼女のザ・ワールドはそのストレスの結果なのかもしれないと思った。不憫に思った。




トゥットゥの扁桃腺炎も収まり、保育園通いを再開したのは4月13日(水)。保育園に迎えに行くと、トゥットゥの遊び相手としてよく名前の出てくる男の子Kくんも帰るところであった。

「一緒に帰る!」

というものだから、帰る方面は違うのだが、「一緒に帰りたかったのに。」が出てきてはたまったものではない。Kくん親子に了承を得て途中まで一緒に帰ることになった。ところが地雷は意外なところに埋まっていたのである。

「トゥットゥはKくんみたいにながぐつをはいてかえりたかったのに。」

この日は朝のみ小雨ということで、普通のスニーカーを履かせていったのである。もちろん今、ここにトゥットゥの長靴などはない。トゥットゥはKくんの後ろを歩きながら延々とい続けた。家に着くまでのトータル30分。最長記録である。もちろん先に挙げた4通りの対処も続けた。私って忍耐強いなと褒めてあげたくなった。

そしてその晩、事件は起こった。

一緒に風呂に入ると真っ先にあいうえお表を読むトゥットゥ。

「あいうえお、かきくけこ…」
「あらトゥットゥ、『かきくけこ』って言えて偉いね。」

私は思わず目を細めて声をかけた。にもかかわず、それは地雷だった。

「お母さんが『かきくけこ』って言った!トゥットゥがが言いたかったのに!!」

いつもなら「ごめんね」と言って母親として流すところだが、保育園の帰りの30分がボディブローのようにじわじわ効いていた。そして今回は完全な濡れ衣だった。いつもの4通りの対処方法にはない方法で打ってでてみようと決意した。それは…

5.理不尽な要求を叱る

というものだった。

私は一気にボルテージを上げた。私は山口県出身だが、出身地の方言的には広島弁に近い。なんといってもデコ母の娘である。まくしたてるととても怖いのである。

「『かきくけこ』はあんたが先に言ったんじゃろうが。お母さんは褒めただけじゃろうが!」
「トゥットゥが『かきくけこ』って言いたかったのに!」
「お母さんは謝らんよ!」
「トゥットゥが『かきくけこ』って言いたかったのに!」
「お母さんは悪くないけーね!」
「トゥットゥが『かきくけこ』って言いたかったのに!」
「やさしくすりゃあ、つけあがりやがって! 言って詮無いこともあろうが!」

方言丸出し、最後の台詞などもう親のいう言葉ではない。

トゥットゥは私の暴言にひるんでしょんぼりして幕引きすると思いきや、号泣しつつも粘り強く繰り返すだけだった。そのまんまイソップ物語の「北風と太陽」ある。結果、風呂が泥沼化。この途中、幸運にもジェイジェイが帰宅。レフェリーストップをかけて、試合終了。トゥットゥは、お父さん抱っこでかろうじて回復した。

ジェイジェイによると私がトゥットゥを虐待しているように聞こえたらしい。ぬうう、心外な。ここに至るまでいろいろとあったのよ。




翌4月14日(木)。やはり保育園帰り、トゥットゥは一緒に帰ったYくんのようにループタオルを手に持ちたいと言ってきた。地雷がどこにあるかわからない。なるべく彼女の要求を叶えてあげよう。ループタオルを取り出し、手渡したところ…。

「トゥットゥがかばんからタオルを出したかったのに!」

始まったよ…。ところがこの日は様子が違った。私への抗議は、私の正面に回り込んで私の目をまっすぐ見て伝えてくるのだ。もしやと思った。

「トゥットゥ、抱っこしてお話聞こうか。」

私は彼女に手をのばした。彼女はすぐに抱っこされた。身重で辛かったが我慢した。

「もしかして抱っこしてほしかったの?」
「うん。トゥットゥはだっこしてほしかったの。」

彼女の抗議はあっけなく止んだ。甘えたかったのか。そうか、どんな要求でも満たそうと思うことは、愛されていると感じたいことと同義なんだ。彼女の呪い、止められれた時間は愛で溶かされるのだ。こんな簡単なことがわからなかったなんて。


週末、トゥットゥはジェイジェイと私とで命いっぱい遊んだ。きゃっきゃと言ってはしゃいだ。その姿が愛おしくなった。少なくとも週末、仮定法過去完了の呪いにかかることはなかった。