無事妊娠34週を迎えた。助産師さんが毎朝体温と血圧を測り、むくみを調べてくれる。また毎日午前中にNST(機械をつけて赤ちゃんの心音や子宮の張り具合を確認)、午後にキックカウント、夜にマイクをお腹に当てて赤ちゃんの心音を確認する。朝8時、昼12時、晩18時と栄養バランスの取れた約2000カロリーの妊産婦食を食べる。だいたい夜20時頃風呂に入り、寝支度、夜10時に消灯、朝6時前には起きる。週1で血液検査、尿検査、体重やお腹のサイズの測定。なんて健康的な生活なんだろう!
その上、病院ではインターネットサーフィン、または読書三昧である。こんなことって今までの人生の中あっただろうか。独身でも学生時代は勉強に追われ、社会人になってからは仕事に追われていた。結婚するとそれまで適当だった家事に求められるレベルが上がり、今まで以上にハードな生活となった。トゥットゥが生まれてからは育児が追加となり更に大変になった。
それが今、やらなくてもいいだけでなく、一切考えなくていいのである。もっと言うなら、快適な衣食住を何の不安もなく与えられているのである。こんな幸せなことはあるだろうか。
もちろん代償なしというわけではない。この生活には3つの代償がある。
一つ目。今まで働いてきた分の貯金や社会保険料を納めているという社会的基盤の上に成り立っていること。しかしこれは「今」の問題ではない。社会人として責務を果たしていてよかったという振り返った時の安心感程度のものである。代償と呼ぶほどのものでもないかもしれない。
二つ目。出産リスク、そして出産後の慌ただしい毎日が控えているということ。しかしこれもまた「今」は関係ない。思考に上らせなければ「今」不安もない。ちょうどシャルタン・バーンズ「瞬間モチベーション」を読んだばかりである。人は思考の選択ができるのだ。なるようにしかならないと思っている。
三つ目。家の留守を預かってもらっているジェイジェイ、サチ母。そして寂しい思いをさせているトゥットゥ。彼らの犠牲の上に成り立っている。これはまさに「今」の問題であり、申し訳ないと思っている。これについては出産後できるだけ報いなければならない。しかしそれを「今」病院で私が思い悩んだところで彼らの状況が変わるわけではない。
だからこそ、管理入院は人生におけるつかの間の休息、出産までの神様のプレゼントと考えようと思った。
ところが今日、この安穏とした生活の幸せをかみしめていると、あることが頭をよぎった。この生活は何かに似ていないか。
畜産農家によって美味しい肉になるために大切に世話されている高級和牛や黒豚だ。早い話が家畜である。なぜなら朝体重計に乗るたびに順調に体重が増えているから! 管理入院中なので激しい運動はNGであるため、基本、食っては寝て…なのである。体重増加が心配になって助産師さんに聞いた。
「許容範囲は元の体重から9~12kgの増加。そして妊娠9か月目だと1週間500g以内の増加。ジャッキーさんの場合、タンパクも出ていません。血圧も問題ありません。むくみもありません。今の状態は赤ちゃんの成長にベストと言えます。何か問題があれば毎日の健診で指摘をしますので安心して!」
こ、これが管理入院か。霜降り肉にするためにベストな体調管理をされているのか…って違う!
そもそも家畜と私とでは目的が違う。そして私は家畜と違いこの時間を自らの意思で選び取っている。しかし考え方は同じだ。目的に向かってなるべくストレスがないように全てが管理される生活。これを「幸せ」と表現してもいいのだろうか…。確かに母子共に命のリスクを減らすための生活なので、この場合、安全が確保されることは喜ばしいことではあるのだが。
ふとあるコラムを思い出した。最近の日本の若者の行動原理は「より安全な方」なんだそうである。そして筆者は「より楽しい方」であるべきではないかと提起していた。私もこのコラムを読んだ時は、シリアのような戦時下で生命を脅かされている状況ならまだしも、日本のように生存が保障された状態で、彼らの言う安全なんていうのは自分のちっぽけな自尊心が傷つくことから身を守る程度のことだろう、と若者の腑抜けたマインドを苦々しく思った。
ただ今回、本当に安全、安心な生活を体験して心底思ったことがある。「管理されるのは楽」ということだ。なぜなら管理者を信用すればいいだけで、他は何も考えなくていいからである。
だからこの体験を通して、若者が「より安全な方」を選ぶのは、実は自尊心云々ではなく、それだけ現代社会では情報と思考と決断に支配された日常を送っている証拠なのかもしれないと思った。どこでも繋がるインターネット社会の弊害であろうか。思考の疲労や決断の失敗の恐怖により「より安全な方」=「より楽な方」を選んでいるのであれば彼らは哀れである。目的も持たずに「楽だから」という理由で自ら管理された生活を選ぶこと、それを家畜というのかもしれない。
「楽だから」は魅力的であるが、私は家畜ではないと信じている。この生活が目的があるものと認識し、享受しよう。この生活もあと2週間とちょっとである。