2016年5月8日日曜日

人に気に入られようとする人の弱さ

土曜日のトゥットゥとの再会の様子を思い出す。今まで素直に「おかあさん!」と抱きついたことがあっただろうかとつらつらと思い返す。保育園に迎えに行くと嬉しそうにダッシュしてくるではないか。そう、この反応が親が求めているものだ。

しかし、初めて3日会わなかった時お正月に夫婦だけで初詣に行った時大阪行きで2日家を留守にした時、そして今回の管理入院2週間のブランク後の再会、これらのイレギュラーな状態は不安を煽るのだろう。反応が「おかあさん!」と抱きついてくれるわけではないことを私も学習した。

丁度インターネットで恋愛における両想いの男女が結ばれない理由という記事を読んで、好きすぎると、受け入れてもらえない恐怖が先に立ってあのような行動をとるのだということがわかった。

ただ、相思相愛は有難いとして、私とトゥットゥはそんな信頼関係、母親に受け入れてもらえないという恐怖を抱かせるような関係の築き方をしてきたのだろうか。

トゥットゥは万事、慎重派だったことを思い出した。例えば得体の知れないものは絶対に口には入れない。むやみやたらにダッシュして、家の中でも、外遊びでも、ぶつけたり、転んだりすることもない。そういった点、赤ちゃんの重大事故につながるような行動はほとんどしないため、育児は楽だった。

それは人付き合いにも発揮された。トゥットゥには、保育園に入る前から、区の0歳児クラスに毎週通わせたり、子育てサロンで知らない子や保育士と触れ合う機会を与えていた。屈託無く人の輪に入っていけるような子になってほしいという願いからだった。しかしそういった訓練の場を与えても、たまに会う山口のおじいちゃん、おばあちゃんに慣れるのに時間がかかった。

それをかつてデコ母に東京での閉鎖的な育児のせいにされて、一生懸命やっている私としては腹を立てたこともあった。今思うに、私を子育てしたデコ母の記憶では、私はおそらく、人懐っこいとまではいかなくとも、物怖じしない性格だったのだろう。だからこそトゥットゥにもそれを期待したのかもしれない。

そう考えると、トゥットゥは私と違って人と信頼関係を築くのに時間がかかる、元々あの子の持つ気質ではあるまいか。




ただ先の記事のようにまだ関係の浅い男女ならまだしも、一度築いた強固な(のハズ!)人間関係を疑うのはどうなのだろう。まだ時間として足りないのだろうか。質が問題なのだろうか。ひょっとすると、生まれもった性格(慎重)だけでなく、早生まれも関係しているのではないかと考えるようになった。

トゥットゥの場合、12か月で保育園の1歳児クラスに入った。これが極端な話、4月生まれの場合だと111か月となるので、母子と過ごした期間が約1年近く異なることになる。

4月生まれは0歳児クラスで預けられる場合がほとんどという反論もあるだろう。1歳児クラスは乳児18名に対して保育士4人。対して0歳児クラスは乳児8名に対して保育士4人。乳児一人に対する大人の目の掛けられ方が違うのである。トゥットゥは12か月にして、0歳児クラスに入るよりもはるかに競争率の高い、大人の関心の奪い合いに参加させられてしまうことになる。ここが発達も先を行く4月生まれと異なるところではないだろうか。

そしてもう一つ。トゥットゥは2歳児クラスに進級し、2歳半あたりから集団で遊べるようになった。そして男の子のお友達の名前がよく出てくるようになった。朝保育園に送って行って、彼らの姿を見つけると、名前を呼んで嬉しそうに駆け寄って行く姿が何度も見られた。ところが彼らに歓迎されるばかりではないことも分かった。

それは彼女の接し方である。具体的には彼女は親愛の情を示すのに相手を叩いたり、まとわりついたりするのである。それが相手が嫌がっていることがトゥットゥにはわからない。私が止めるより早く、彼女より数ヶ月もお兄さんである彼らは言葉でそれを制する。

「やめろよ!」

そしてトゥットゥがしょんぼりするのを私は見た。幼いがゆえに相手との心地よい距離感がまだ掴めないのである。親としていたたまれなかった。

おそらく普段の保育園の遊びの場でも似たようなことが起こっているのではないだろうか。トゥットゥは無邪気に彼らの仲間に入ろうとする。ところが早生まれの女の子、身体的な発達も遅く、コミュニケーションもイマイチ、明らかに味噌っ粕。活発な彼らの外遊びにおいて、邪魔であることは想像できる。そして彼らもまだ子供だ。小さな子、弱い子を積極的に守るような義侠心はまだ持ち合わせてはいるまい。

幼い子が遊びの輪に入ろうとして、きつい言葉を投げかけられていたらどうだろうか。それが続くと私だったらたとえ仲間に入れてもらえたとしても、相手の好意が本当かどうか疑心暗鬼になってしまう。相手の顔色を伺ってしまうと思うのだ。

トゥットゥのあの態度は、人との距離の取り方を学習している証拠なのかもしれない。




そんな話を今日お見舞いに来てくれた弟夫婦と話した。すると1月生まれの弟のティエティエがふと言った。

「早生まれの自分は中学校に上がるまでそんな感じだった。メインストリームには決していない。早生まれはどこかオルタナティブに生きるしかないのだ。」

そういえば12月生まれのヤマナちゃんも別の機会にこんなことを言っていた。

「幼稚園の頃から、あの子、性悪だなあなど、よくよく観察をして、絶対に近づかないようにした。」

それを言うと10月生まれの私。弟や妹が感じているようなことを幼稚園、小学校の頃から思ったことは一度もなかった。逆に自分がメインストリームだという自覚もなければ、誰かを気に入って積極的に仲良くしようと思うこともなかった。そもそも他人のことをそんなに気にかけてない気がする…。

私は年度の前半生まれではないが、昔から体が大きかった。体を動かすのも好きだったし、手先も器用だった。長女長子というのもあってデコ母の教育が手厚く、気質的にも物怖じしない、いわゆる利発な子だったと思われる。そして他人に意地悪するようなことは決してしなかった。(姉貴風を吹かせて思い通りにならないと弟をひっぱたくとか、末っ子で可愛がられる妹に嫉妬して意地悪することもあったが今謝ります。ごめん。)

こう書くとパーフェクトな幼年時代とも思いたくなるが、小学校時代のある先生から

「弟さんや妹さんと違って、お姉さんのジャッキーさんは冷たい」

と評価されたとデコ母が言っていて、首をかしげていたことを思い出した。また話は変わるが、私は若い頃占いが好きで、いろんな占いを見たのだが、よく

「人の気持ちがわからない」

と書かれてあることを思い出した。

両方ともその評価を知った当時は腑に落ちないものがあったが、トゥットゥの様子、そして弟、妹の幼い頃の身の処し方を知って、なんとなくわかった気がする。

幼い頃の私は幸運にもいろんな条件が整って自己肯定感が強かったのだろう。リーダーシップを取って対人影響力を発揮したいという欲もない。正義感が強いわけでもない。そうなると他人が気に入らないという状況になりにくい。誰かと徒党を組んで意地悪もしない代わりに、万事、人は人、自分は自分という態度で臨むことになる。そしてそれは人に媚びないことにつながる。だから小学校の先生には可愛がられなかった。それだけは幼い心ながらよくわかった。それは当時の私の小さな悩みでもあった。(もう、今、納得!)

人の気持ちがわからない。確かに当時の私はわからなかったかもしれない。しかし人と比べて一喜一憂する思春期を通り、人事評価が具体的に給与という形で跳ね返ってくる会社人を20年近くも務め、人の親となった今ならわかる。人に気に入られようとする人の弱さ。それを仕方ない、愛おしいと思えて初めて人の気持ちがわかるというんだろうなと。親になるってこういうことなんだなと。